
【論考】制度と信用 ― 補完関係としての結論
- 牧野 輝彰
- 9月22日
- 読了時間: 4分
これまでの論考では、契約や制度よりも信用が根本的ではないか、あるいは議事録や非公式合意こそが実際の拘束力を持つのではないか、という視点を提示しました。これに対して「制度を軽視しているのではないか」「契約を軽んじれば信用を失ったときに救済できないのではないか」といった反論も寄せられました。確かに信用だけを強調すれば、制度や契約を無視する議論に見えなくもありません。
しかし、私が本当に言いたいのはその逆です。制度と信用は対立するものではなく、互いを補い合う両輪です。制度は信用を記録し、信用は制度を生かす。この関係性を改めて整理しておきたいと思います。
制度は単なる形式ではなく、信用を継続させる器です。議事録や録音、公文書といった仕組みがあるからこそ、政権が交代しても国家としての約束は守られます。もし記録がなければ、「言った・言わない」の水掛け論に陥り、信用はすぐに失われてしまうでしょう。だからこそ公文書の改竄は国家の存立を揺るがす重罪とされるのです。
水産業の現場でも、出荷数量や納期が天候や漁獲に左右されるため、契約条文だけでは対応できないことが多い。最終的には「この相手なら後で必ず調整に応じてくれる」という信用が取引を支えてきました。
私がいた業界では、かつてロシアから水産物を買い付ける際に、漁業者へ前渡金として代金の一部を先払いする契約を結ぶことがありました。ロシア側には資源があっても操業資金が不足していたため、この仕組みが必要とされていた時代です。契約で前渡金の範囲を定めつつ、その実効性を担保したのは、相手を信じて資金を出すという信用でした。もっとも、それでも市場価格が高騰すれば、荷物を他の業者に売られてしまうことも時にはありました。(当時の時代背景に根ざした一形態であり、現在ではこうした買付を行う企業は見られません。)
契約で前渡金の範囲を定めつつ、その実効性を担保したのは、相手を信じて資金を出すという信用でした。その信用を裏付けるものとして残るのが、契約条件や送金記録といった制度的な証跡なのです。
一方で、信用がなければ制度は空っぽの器にすぎません。どれほど立派な契約書があっても、相手に履行の意思がなければ実効性を失います。国際政治でも、条約を一方的に離脱する国はいくらでもあります。
水産業の仕入れ現場でも、「契約書にないから責任はない」とする相手とは継続的な関係は築けません。制度が力を持つのは、そこに信用という中身が注がれているからです。
この点は外交の現場でも同じです。赤澤大臣は日米投資枠について、当初から「文書化はせず、投資枠として金額を設定するにとどめる」と説明していました。私もその意図を踏まえたうえで、この論考では制度と信用の関係に焦点を当てています。
一方で、SNSなどでは「日本政府が80兆円を丸ごと米国に拠出する契約を結んだ」といった解釈が広がりました。これは事実を取り違えたものであり、赤澤大臣の説明とも一致しません。ここで論じたいのは、その誤情報の是非ではなく、覚書(MOU)のような形式が持つ拘束力の性質です。
条約や契約のような法的強制は伴わなくても、議事録や覚書に残る以上、政治的には強い拘束が生まれる。ここにこそ制度と信用の補完関係が表れています。
結論として、制度と信用は対立するものではなく、補完し合う存在です。制度は信用を記録して形に残し、信用は制度を意味あるものにする。契約も議事録も制度も大切ですが、それを生かすのは最終的に信用の力です。
水産業の慣習から外交の交渉に至るまで、この構造は変わりません。制度を軽視しているのではなく、制度を支える基盤として信用を語ってきたのだという点を、ここで改めて強調しておきたいと思います。
締めくくりとして、赤澤大臣の実務姿勢には強い敬意を抱いています。制度と信用の重みを正しく理解し、現実に即した判断を下したからです。その一方で、かつて記録そのものが歪められ改竄された時代があったことも忘れてはなりません。制度を支えるのは信用であり、その信用を裏切ることの代償は計り知れない――まさに今回の論考が示す通りです。



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